ディエジェシス的
テクストの虚構世界に属するとみなされるものをディエジェシス的なもの、そうでないものを非ディエジェシス的なものとすることによって、その2つを区別することのできる便利な批評用語である。
両者の区別を通常はつけやすい映画音楽を例にして言えば、映画の虚構世界内に存在しており出所がはっきりしている音楽、例えばラジオあるいはジューク・ボックスの音楽は、デイエジエシス的である。
だが他方、サウンドトラックの音楽は非ディエジェシス的である。
映画の映像について言うなら、映像がディエジェシス的であること、つまり、映画の虚構世界の一部であることが(間違いなく大半のイリュージョニズム的な虚構映画にとっては)一般的基準であろう。
しかしながら、反イリュージョニズム的な映画製作においては、非ディエジェシス的な映像が、象徴的・隠喩的な目的に役立つことがある。例えば、セルゲイ・エイゼンシュテインは、『ストライキ』(1924)の最後に登場する労働者の大虐殺のシーン中に、屠殺される一頭の雄牛のショットを挿入している。マシスによると、このカットは、主筋と物語的には関係はないが、労働者たちの運命の隠喩として機能している。ジャンHリユック・ゴダールのような監督は、非ディエジェシス的な要素(本の表紙、無関係な映画のシーン、現実のインタビュー)を、距離化を図る反イリュージョニズム的な手段として映画に挿入する。
確立した慣例ではあるが、映画のクレジットが同じく非デイエジェシス的であることに疑いの余地はない。